オオカミが嫌われる理由/オオカミ根絶の歴史

古代~中世

ヨーロッパでオオカミが人間から恐れられ、憎まれるようになったのは、ヤギと羊を家畜化した牧畜の開始からです。ただし現在でも遊牧民はオオカミに対して「敬意をはらうべき好敵手」(「オオカミ」マーヴィン)と考える傾向がありますから、牧畜の開始=定住型の牧畜の開始と言い換えるべきかもしれません。

 

※「オオカミ 迫害から復権へ」ギャリー・マーヴィン著 南部成美訳 白水社 2014年

 

定住型の牧畜民は、オオカミを恐れ、さまざまな防御の方法を考えます。自衛のためです。最初は祈祷、まじない、祈り、次に音、火、牧羊犬でした。中世のある時期からオオカミ退治、騎馬と猟犬と射手と勢子を使う大がかりな狩り出しが始まります。(「狼と人間」ベルナール)このとき、人間対オオカミの関係は、人間側の防御から、オオカミに対する攻撃に変わりました。君主の命令一下、組織的な駆除が始まったのは、神聖ローマ帝国のカール大帝シャルルマーニュの時代(在位768~814年)が最初です。

 

※「狼と人間 ヨーロッパ文化の深層」ダニエル・ベルナール著 高橋正男訳 平凡社 1991年

 


イギリス

イギリスでは14世紀ペストの大流行で総人口四百万人の3分の1が死んだと言われ労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転換したといわれています。それがオオカミの根絶を促進しました。オオカミの頭数を減らすためにオオカミの死体や毛皮、舌が租税の代わりにされ、オオカミ専門猟師に報酬を与えて狩らせたため、イングランドではヘンリー7世時代(1485-1509)、スコットランドでは1680年代までに根絶されたようです。(「オオカミ」マーヴィン)


フランス

フランスでは、地方行政単位で「狩り出し」、つまり大勢の人たちが喊声をあげ、音をたててオオカミを追い出す猟が行われていましたが、1583年に王国全体にわたって計画、実施されました。それは次第に効果を失い、農民が不満を募らせたため、オオカミ狩猟隊の制度がフランソワ1世(在位1515~1547年)によって確立し、王政時代を通じて頻繁に王の狩猟隊が活躍しました。フランス革命直前に財政負担が大きくなりすぎて一旦廃止されます。

フランス革命政府は、狩猟隊ではなく懸賞金制度を充実させ、オオカミを激減させました。次のナポレオン1世は再びオオカミ狩猟隊を再建しています。

こうした様々なオオカミ退治の施策も、オオカミがいなくなって成果がまったくなくなってしまい、19世紀後半にはほとんど行われなくなりました。したがってフランスからオオカミが根絶されたのはこの頃ではないかと思われます。

(「狼と人間」ベルナール)


アメリカ

オオカミの毛皮とハンター
オオカミの毛皮とハンター

アメリカではこのようなヨーロッパのオオカミ狩に別の要素が加わり、オオカミ憎悪がさらに過激化します。

(「オオカミと人間」ロペス)

「オオカミを憎む心には宗教が影をおとしている。オオカミは悪魔の変装した姿だと考えられていたのである。一方世俗的にいえば、オオカミは家畜を殺し、人々を貧困に陥れた。もっと一般的にいえば、オオカミへの憎しみは昔から、荒野に対する人間の感情と結びついていた。荒野を賛美することはオオカミを称えることであった。荒野が象徴するものをなくそうとすることは、オオカミの首を求めることにほかならなかった」

 「19世紀の終わりごろ、オオカミ殺しはまっとうな仕事だった。開拓を推し進める人間に、バッファローやその他の野生動物を奪われてしまったので、オオカミは牛や羊を襲うようになっていた。アメリカで家畜を飼育したければオオカミを殺すよりほかなかったのである」

 「オオカミが他の獣の場合と異なるのは、歴史的に見て、オオカミ殺しに対する抑制の動きがあまりに少なく、異常すぎるほど執拗に殺されたという点である。人々はオオカミをただ殺すだけでなく、いじめ抜いた。オオカミは火あぶりにされたり、顎を引き裂かれたり、アキレス腱を切られたり、イヌをけしかけられたりした。オオカミを毒殺するためにストリキニーネ、砒素、青酸カリ、が大量に仕掛けられた」

「アメリカの牧羊業者たちは、1865年から85年までの間に、病的ともいえるほどオオカミ殺しに熱を入れた」

 

※「オオカミと人間」バリー・ホルスタン・ロペス著 中村妙子 岩原明子訳 草思社 1984年

アメリカのオオカミ根絶

パイソンの頭骨の山
パイソンの頭骨の山

アメリカ大陸では、毛皮猟師たちが16世紀から毛皮を目当てに内陸に入り込んであらゆる毛皮獣を獲りまくり、アメリカ建国のころには既に高く売れる高級なビーバーやテン、キツネなどの毛皮獣は激減していました。次に毛皮の価値としては劣るシカ、バイソンが獲られるようになったのが19世紀です。大平原で猟師はバイソンを獲り、東部の都市社会に向けて毛皮と、タンシチュー用のバイソンの舌を供給しました。

同時に、植民地政府、後には合衆国政府は、当時敵対関係にあったインディアンを打倒するためにその糧道、バイソンの根絶を図りました。できたばかりの大陸横断鉄道に乗ってハンターたちは大平原を横切り、バイソン狩りを行ったのです。バイソンは6000万頭いたといわれていますが、急速に数を減らし、1900年ごろには数百頭まで落ち込んでいます。

 

※「毛皮と皮革の文明史―世界フロンティアと掠奪のシステム」下山 晃著 ミネルヴァ書房 2005年

 

白人が農民として入植し始めたときに、彼らの目の前に広がっているのは、野生動物がいなくなり、耕作されたこともない「荒野」でした。彼らは、家畜が存在しない新大陸に、家畜をもちこんだのです。

バイソンがいなくなった大平原は、恰好の牛の放牧地でした。南部で始まった牛の放牧は、次第に西部に移動し、拡大した合衆国政府の公有地に何十万頭、何百万頭と放牧されました。

白人たちのバイソン狩りでは、毛皮を剥いでタンを抜いてしまえば他の部位は用なしです。バイソン狩りの集団が通過した後は、皮を剥いだ肉塊が草原に放置されました。1990年に公開されたアメリカ映画「ダンスウィズウルブズ」(ケビン・コスナー主演)には、まさにその光景が描かれました。

日本

日本ではその頃明治維新を迎えます。幕藩体制が壊れ、地方行政の規範が緩和し、貿易港を開きました。国内では銃規制がなくなって使用が野放し状態になりました。貿易港には欧米の毛皮商が軒を並べて日本の毛皮を買い求め、また市場としても期待されてもいました。(「毛皮と皮革の文明史」)

 

その結果は、北海道に顕著に表れています。北海道開拓使の方針で北海道の物産の輸出を図り、エゾシカの鞣し工場や缶詰工場を建設して毛皮やエゾシカ肉を輸出していました。明治5年から13年の間に約40万頭分のエゾシカ皮が輸出されています。その乱獲と12年の大雪の影響で、エゾシカはほとんど絶滅状態になりました。(「絶滅した日本のオオカミ」)

 そこへ明治政府は殖産興業の一つとして、アメリカから畜産技術を導入しました。オハイオ州の青年畜産家エドウィン・ダンは、明治7年(1872年)、お雇い外国人として来日し、まさにアメリカで進んだ近代的な畜産と、放牧に対する脅威としてのオオカミ対処法を身に着けた若い現場技術者として日本の畜産技術を指導したのです。

 

エゾシカが減少するにつれてオオカミは獲物を求めて開いたばかりの牧場にやってきます。オオカミだけでなく、野犬も多く、牧場に殺到しました。駆除頭数としては野犬のほうがむしろ多く、オオカミの3倍ほどもありました。貴重な馬や牛、羊を護るために、ダンの提案により明治政府は懸賞金をかけて、毒薬、銃、ワナを使い、疥癬の菌を撒いたり、巣穴を襲うデニングという技術も駆使して根絶を図ります。開拓使はオオカミの根絶にひた走りました。記録によれば懸賞金が支払われたオオカミの頭数は、(明治10年から22年) 計1578頭でした。この記録に含まれない捕獲頭数を加えると、2000頭を超えると考えられています。

 

当時、懸賞金として、明治10年(1878年)に1頭につき2円が設定されました。11年には7円に増額され、15年には10円になります。その当時の公務員である巡査の初任給は、明治14年時点で6円ですから、たった一頭で一か月分の月給を超える金額が稼げることになります。(「値段史年表」)この賞金額は、東北地方でも同様でした。(「オオカミが日本を救う」)被害防除という意味合いもあったかもしれませんが、欲に駆られて行われた根絶、と言ってもいいのではないでしょうか。

 

いずれにしても、日本もアメリカと同様にオオカミは獲物のシカを人間に獲られてしまい、そこに獲物によく似た家畜が導入されたため、その家畜を捕食しようとして、人間に敵視され、懸賞金をかけられて駆除され、そしてやがて根絶した、という経過をたどったと考えられます。

 

※「絶滅した日本のオオカミ―その歴史と生態学」ブレット・ウォーカー著 浜 健二訳 北海道大学出版会 2009年

※「値段史年表 明治・大正・昭和」 朝日新聞社  1988年

※「オオカミが日本を救う」丸山直樹編 白水社 2014年

     第二章 明治時代、東北地方で行われたオオカミの駆除(中沢智恵子)

 

オオカミ根絶後の刷り込み(日本)

オオカミが根絶に向かっていた頃、教育界ではドイツのお雇い外国人が日本の教育を変えようとしていました。彼らは民話を道徳的な教育の素材にしようというドイツの最新の理念を持ってきました。素材はグリム童話とイソップ物語です。結局「赤頭巾ちゃん」の物語は幼児教育に使われるようになり、現在まで140年間幼児に刷り込まれています。「羊飼いと少年(オオカミ少年)」の物語は小学校の修身の教科書に翻案して、うそをつき続けるとたまに本当のことを言っても信じてもらえなくなるという教訓として取り上げられ、敗戦まで使われることになりました。

イソップの「羊飼いと少年(オオカミ少年)」原話は、羊飼いの少年が「オオカミが来た」と何度も大人を騙した結果、本当にオオカミが来たときには助けてもらえず、少年が世話をする羊が食べられてしまう物語でしたが、日本では、少年自身が食べられてしまう話に翻案されてしまいました。その刷り込みは長く残り、今でも時折お年寄りが言います。「オオカミは人を食べにくるから」

また、日本ではこのイソップの話から、嘘を繰り返す人物を「オオカミ少年」と呼ぶことがあります。

こうしたことが、オオカミが生息していない日本でオオカミのイメージを決定していると思われます。